記述:佐藤 紀子
作成:佐藤 綾子

 七月七日、牽牛・織女(しょくじょ)、聚会の夜と為す。
是の夕、人家の婦女、綵縷を結び、七孔の針を穿ち、或るいは金・銀・鍮石を以て針を為り、几筵・酒脯・瓜果を庭中に陳ね、以て功を乞う。喜子(くも)、瓜上に網することあらば、則ち以て符応ずと為す

 七月七日は、牽牛・織女が会う夜である。
この日夜になると、家々の女性たちは綵縷(さいる)(いろ糸)を結んで、七本の針にそれを通す。その針を金や銀や真鍮で作る者もいる。庭の真ん中に几(つくえ)と筵(ござ)とを置き、その上に酒と肴と瓜などの果物を並べて「巧」を授かるようにと祈る。もし喜子(くも)がその瓜の上に網をかければ、その望みがかなう兆(しるし)だとされている。


 七夕とは、陰暦7月7日の称。七夕祭、星祭ともいう。
七夕の行事にはいくつかの流れがあり、それらが複合して七夕の習慣ができあがったと考えられる。牽牛星と織女星の星祭の伝説と乞巧奠(きつこうでん)の行事は、中国から伝わったもの。星祭とは二星を祭る行事。天の川の両岸にいる牽牛星(鷲座の彦星)と織女星(琴座の織姫)とが、白鳥座の近くにいる鵲(かささぎ)の媒介で年に一度出会うという伝説に由来する。乞巧奠の風習は、女子が手芸に巧みになることを祈る中国古来のもので、7月7日の夜に供え物をして、裁縫・機織り・手芸などの上達を願う行事である。

  中国伝来の星祭伝説と、これから発展した乞巧奠の行事は、わが国古来からの「棚機(だなばた)つ女(め)」の習俗と結びつき、奈良時代に宮廷や貴族の間に取り入れられ、やがて民間にも普及していった。笹竹を立て五色の短冊に詩歌を書き、手習い事の上達を願う風習は、寺子屋が普及した江戸時代になってからのことである。江戸時代の市中では、六日の夕方、竹売りから笹竹を買い、色紙や短冊をつけて軒先に立てるしきたりがあった。
 
  もう一方の流れは、古くからあった日本固有の七夕の民族行事である。お盆の祖霊まつりにつながるもので、お盆の前に穢れを祓い浄める行事であったと解釈できる。七夕の日には、水浴びを大切な行事とした所が多い。髪を洗ったり子供や牛・馬に水浴びをさせたり、墓掃除をしたり、井戸をさらったりする習俗が各地に残されている。水浴びを「ねむり流し」とか「ねぶた流し」ともいった。
 青森の「ねぶた祭」も、本来は穢を水に流す祓の行事。ねぶた(ねぷた)は<眠たさ>のことで、睡魔を追い払う行事である。町を練り歩いた人形や灯籠は、川や海へ流した。灯籠流しが大規模に遊戯化したのが、青森のねぶたであり、秋田の竿灯なのだ。
 七夕における水に関する習俗は、日本固有のものである。七夕の日は、短冊が流れるほど雨の降るのがよいという地方もある。これは雨を浄めの雨と考え、七夕を祓の行事と考えたからである。
 また、この日は茄子や胡瓜などを仏前に供え、馬や牛を真菰(まこも)(イネ科の多年草)で作り、門口に立てた。先祖の霊を馬や牛に乗せて迎えるという意味であったらしい。これらのことから、盆と七夕の関係はひと続きの行事として理解することができる。
 「七夕」という文字は、七日の夕を略したもので文字どおりに読むと「しちせき」
「しっせき」「ななゆう」などとしか読めない。(『万葉集』では「なぬかのよ」「なぬかのよひ」と読む)。『古事記』と『日本書紀』に「おとたなばた」「たなばたつめ」という言葉があり、いずれも「機を織るおとめ」を意味する。日本には、秋の初め(陰暦7月)に豊かな収穫をもたらす神霊の訪れを水辺にしつらえた忌屋(棚)で、機を織って待つおとめの信仰儀礼があった。そのおとめを「棚機(だなばた)つ女(め)」といった。収穫の神を迎え祀る初秋の行事はたなばた「棚機」と呼ばれ、中国の七夕伝説との習合により、日本語のたなばたに漢語の「七夕」をあてたものと思われる。たなばたとは、棚機という機織りの機械そのものという考えもある。また、タナは神を祀る祭壇の棚からきており、ハタは神の依代としての旗、とする説もある。

       
 

『続(しょく)日本記』 聖武天皇 天平六年/734年7月7日の条
  天皇、相撲の戯を観たまふ、是の夕、南苑に従御し、文人に命じて
七夕の詩を賦せしむ、禄を賜うこと差あり
 『万葉集』
  天の河楫(かじ)の音(ね)聞ゆ彦星と 織女(たなばたつめ)と今夕(こよい)逢ふらしも

  機の踏木持ち行きて天の河 打ち橋わたす君が來むため
   七夕の儀式に用いられた品々 … 正倉院所蔵
   七本の針 … 長さ約35pの大針3本(銀針・銅針・鉄針)
          長さ約20pの小針4本(銀針・鉄針各2本)

   三色の色糸「縷」 … 白色・黄色・赤色の絹の糸玉や糸束
   鉄の大針の孔には赤い糸(縷)の断片が通されたまま残り、
    縷に付属する紙箋には「琴・箏・収了・琵琶・銀・九枚」の記載がある。
   赤い糸は赤心(いつわりのない清らかな心)の印といわれる。

『江家次第』
「雲圖抄」より
 

 乞巧奠 … 「宮中の清涼殿の東庭に長筵(ながむしろ)を敷き、その上に朱塗りの高机四脚をすえ、桃・梨・茄子・熟瓜・大豆・大角豆・干鯛・薄蚫(あわび)などのほか楸(ひさぎ)(赤芽柏)の葉に金・銀の針各七本を刺して供える。これには五色の糸を通してある。また琴一張を机の上に置き、傍らに香炉を置いて終始そらだきを絶やさぬようにする。机の周囲やその間に九本の灯台を置いて明かしを灯す。天皇は庭に椅子を出されて二星の会合のさまをご覧になり、管弦や和歌・詩文などを楽しまれる。」


 

『年中恒例記』
    「将軍は七夕の歌七首を詠じ、芋の葉の露を葉のまま包んで硯に入れ、
     七枚の梶の葉に歌を書き、梶の皮、素麺で梶の葉を竹にくくり、屋根に投げ上げた。」
    梶 … 桑科の落葉高木で、葉は三〜五裂して広い。
          梶の葉に七夕の歌を墨で書いて供える風習は、この後も広く行われた。

 

日次(ひなみ)紀事』 延宝元年/1676
 「七月初七日 七夕 世に七夕と称す。武家並びに地下(じげ)(民間)の良賤,おのおの
白(しろ)帷子(かたびら)を著(き)る。慶を修し索(そう)麺(めん)を喫し、また互いに相贈る」
「地下人(民間人)もまた短冊あるいは楸(ひさぎ)(赤芽柏)の葉、梶の葉に詩あるいは
歌を書し、素麺・瓜・茄(なす)とともに二星に献ずる。素麺は索餅(七夕に作られた麦縄
ともよばれる唐菓子)の略なり」

江戸時代には、貴族、一部武家の行事であった七夕がより庶民にも展開していく。
 

 
「宝永花洛細見図」 「拾遣都名所図会」

 浮世絵師安藤広重が描く「名所江戸百景市中繁栄七夕祭」の図は、江戸市の家並み
から七夕の笹竹が空高く突き出て、笹につけられた投網や吹き流しが空にひるがえり
その向うに富士山が描かれている。
 


 
  明治六年/1873年、明治政府は五節句(供)を廃止。制度的後ろ盾を失い七夕は
さびれてゆく。特に首都東京では顕著だった。
  七夕行事復興の動きは、昭和初期に起きた。七夕で有名な仙台では、衰退していた
七夕行事の復興のため、昭和二年に市内大町商店会が七夕の復興を提唱し、翌三年
には仙台協賛会(仙台観光協会の前身)、商工会議所、商店街が協賛し、七夕祭りを
始めた。年々盛大となっていったが、第二次世界大戦の中断を経て、昭和二十一年
に再開。翌年、昭和天皇のご観覧を契機として、本腰を入れて復活。その後、七夕
協賛会が組織された。豪華絢爛たる七夕は、こうして生まれた。『要説宮城の郷土誌』
参考。
 最近は、家庭や町内での七夕飾りは少なくなり、商店街に出掛けて七夕飾りを見学
する方向へと変わってきた。
 

<索餅>
 索餅は奈良時代に伝わった唐菓子のひとつで、小麦粉、米粉に塩をまぜて
練り、縄のように捻じりあげたもの。『むぎなわ』の名もあった。
この索餅が素麺の原型ともいわれている。

『延喜式』 延長五年/927年
 「小麦と米粉は搗(つき)臼(うす)で搗き、ふるいにかけて粉とする。
湯を沸かし、塩を溶かしこむ。小麦粉と米粉を臼に入れて混合し、塩湯を
注ぎ入れて練り合わせる。さめぬうちに調理台の上で押し広め、これを包丁
で細長く切る。これを竹に掛け、乾燥し、乾いた索餅は籠に取り入れて
保存する。」
 
『尺素(せきそ)往来(おうらい)』 室町時代初期 一条兼良著
 「穀葉之上索餅者、七夕の風流」七夕には穀葉(梶の葉)の上にのった
索餅が供された。
 
『十節記』 古代中国 高(こう)辛(しん)氏(し)の伝説
 王として君臨していた高辛氏の子が七月七日に死に、鬼神となった霊が
人々の間に瘧(おこり)という病を蔓延(まんえん)させた。
そこで、瘧を防ぐため、子が生前好んだ索餅をつくって供えた。
「十節記」に記されている索餅が索麺であり、以来七月七日には索麺(素麺)
が食べられるようになった、と『日本歳時記』は伝えている。
 しかし、索餅が素麺と同じものだとする説(『和漢三才図会』など)がある一方、
別物とする説(『類聚名物考(るいじゅうめいぶつこう)』など)もある。

『諸国風俗問状』 文化年間/(1804〜1818年)
 竹に短冊をつるし、瓜・西瓜・果物を供えるのが通例だが他に供える品物は
ないか、また何らかの儀式をおこなわないか、という問いかけ。これに対し
実際に素麺を供えると回答してきたのは淡路(あわじの)国(くに)、天草、大和高取のみだった。
阿波国からは、団子や瓜・茄子・梨を供えるものの、食べることはなく
祭り納めに際して川に流すとあり、祓の儀式の側面が強い。
 
『東都歳時記』  天保九年/1838年
 「貴賤の別なく二星に供物をし、家々では冷素麺を食べた」七夕祭の素麺は
供物というより、その日を祝って食べるものとしてあったとも考えられる。

  節供は、その節季を無事に乗り越えるための行事であり、神様にお供えをし、旬の
精を体内にとりいれるために、ご馳走を食べお酒を飲んで節供祝いをするものである。
  陰暦七月は暦のうえでは初秋に区分されるが、高温多湿な日本の気候では醸造酒で
ある日本酒を造り、保存するのには不適当であった。それゆえ、七夕の節供には、
桃花酒・菖蒲酒・菊酒などのように、他の節供には習わしとなっている薬酒は存在して
いない。旬の食材も不足で保存の難しい時期であり、七夕の節供料理というほどの
定型化はみられない。現在では天の河や織糸にみたてた素麺が食べられることが多い。
 この時季の実りには新麦があり、その収穫祝いとして盆踊りの風習が残っている土地
もある。
「七夕に索餅を贈るのは盆の祝儀なり」と宝暦四年の「進物便覧」に記されていること
もあり、七夕の索餅と盆の行事との関連がみられる。
 

 

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